Corporate Story

設立の背景

なぜ会計事務所の2代目嫁が、良家の結婚支援で事業承継を進めるのか

「1988年はパパの年」大臣の発声で
幕を落とした事業承継結婚への道

「来年1988年はパパの年。新郎新婦が子宝に恵まれ、会計事務所がますますご発展されますように。乾杯!」

時の文部大臣松永光氏のご発声により、華々しく始まった、30年以上昔の結婚披露宴。
時はバブル絶頂期。寝ている間に土地の値段が高騰し、地上げ屋という言葉があちこちで普通に聞かれた1987年11月のことでした。

東京千代田区の帝国ホテル光の間には、浦和・大宮から、顧問先100社の社長さん、お医者様、地元の名士などが列席され、会計事務所2代目の披露をかねた、結婚披露宴が盛大に行なわれていました。

今から70年前、浦和に20代で自社ビルを建て、会計事務所を大きくした義理の父にとって、あの文化の日は、人生最高の日ではなかったのかと、今振り返り、感じます。

なぜならば、義父の事業承継への執念は、創業者特有の、誠に強烈なものだったからです。

会計士試験に受かるまでは、
家の敷居を跨がせてもらえなかった長男

パワハラという言葉がまだ世になかった時代のこと、義父が右と言えば、右。左と言えば、間違っていようとも左。完全に帝国主義的なムードが、家風としてありました。

結婚して医者嫌いの父を説得して医院に連れて行ったとき、「弘子さん、よく父さんをお医者さんに連れていかれたわね」と驚かれました。義父は、絶対君主制の王であり、頼りがいのある経営者であると同時に、迫力のある人でありました。

会計士試験の浪人中、夫は、受かるまで母屋の出入りを禁止されていました。見かねた母がこっそり、三食の食事を縁側まで運んだと聞いています。二十歳そこそこの息子に、こっそりご飯を差し入れ続けた義母の胸の内はいかばかりだったのでしょう。それでも、家族はみんな仲良しで、家長に歯向かうことは一切なく、いつも団結するから不思議でした。それが、昭和の高度成長を支えた中小企業の経営者の家族の真実なのでしょう。

そんな家風が待っているとはつゆ知らず、サラリーマン家庭で育った24歳の私は、お見合いで優しそうだった年上の夫と結婚し、埼玉の会計事務所の2代目の嫁となりました。

           

ここから、「事業承継」の試練が待っているとも知らず、ましてや自らの体験が、一社)事業承継結婚推進機構設立につながるきっかけになるとは、思いもよらぬことでした。

平凡な会計事務所のおかみさんが、
経営者の仲人を始めるまでのいきさつ

うちの娘に、誰かいい人紹介してくれないかしら?

改めまして、私は、千代田区丸の内の一般社団法人事業承継結婚推進機構の村田弘子と申します。

しあわせ相談倶楽部という結婚相談所を運営し、今年で10年目になります。開業は、義父が急逝して5年目のことでした。

ある日、事務所のお得意さんのところに用で伺うと、帰り際に奥さんに呼び止められ
「ねえ、村田さん。うちの娘に誰かいい人いないかしら?」と言われました。
きょとんとした私に、奥さんはこう続けました。

「私たち夫婦は、お宅の亡くなった善次郎先生の紹介で結婚したのよ。うちは、女の子ばかり3人でしょ。次女が会社は継ぐけれども、私たちが亡くなったあと、あの子と会社はどうなるのかと、心配で夜も眠れないわ。」

「お婿さんでなくて構わない。定年後に経理を見てくれる程度でいいのよ。ねえ、村田さん、頼むわ。誰かいい人はいないかしら?」
奥さんは、困っておられました。

お得意さん同士を結婚させていた税理士の父

私は、その時に初めて、義父が税理士傍ら、よそ様の仲人をしていたことを思い出しました。披露宴か葬儀かのどちらかに呼ばれることが多く、家には引き出物、香典返しが交互に山積みになっていて、会計事務所とは、冠婚葬祭の嵐なんだなと荷物の山を眺めて、ため息をつきました。

昭和4、50年代の引き出物は、鍋だとか、重たい食器とか、かさばるものばかりでしたから、物置部屋にはスチールの棚が物流倉庫のように並び、毛布や肌掛布団が、通路をふさいて投げ置かれていました。最後にはとうとうドアもあかなくなる始末で、質素に育った私は、「脚の踏み場もない」という表現が、実在することを知りました。

義父は、1日に慶事と不祝儀のダブルヘッダーの日も珍しくなく、袱紗の赤と黒の敷板をひっくり変えし忘れたり、あるときは、葬式に白ネクタイで参じてしまったと、言っておりました。

               

一般社団法人事業承継結婚推進機構協会の前に設立しました、私の結婚相談所しあわせ相談倶楽部は、父の仲人役を、嫁が事業として継ぐかたちで誕生しました。会計事務所が主に経営者や士業、医師、地主さんの家族の縁談を紹介し、その家が代々繁栄していかれることをミッションに、活動を開始しました。

しかしながら、義父と私の関係は、継がせてもらうほどの仲が良いわけではありませんでした。むしろ、若い嫁にとっての義父は、抵抗できない「心理的天敵」に近い状態でありました。義父のパワーは、嫁にとってそのくらい強い、絶対的なものだったのです。

旅行から帰ってくると、姑に呼ばれて宣告が下る

まるで社葬のような、営業色の強い披露宴が終わり、1週間のヨーロッパ新婚旅行から帰るともう師走。クリスマスムードの街には、もう小雪がちらつき始めました。厚手のオーバーを羽織っても寒いある日、急に姑に呼ばれた私は、応接間に通され、こんな話をされました。

「弘子さん、わかるわね、うちは、男の子を早く産んでくれないといけないの。」

「どうしても、子どもは3人以上、男の子を必ず産んで、その子をまた、会計士にしてもらわないと困ります。それだけは主人がどうしてもって言うの。だから、弘子さん、どうしても、男の子を産んで頂戴ね。わかるわね?」

母は応接間の暖炉を背に、いつもより背筋を伸ばし、なぜか私の目を見ることなく、そこまで一気に話し終わると、ぎょろっと大きな目で私を見つめました。

「きょう、慶応病院で男女産み分けの注射があるってテレビでやってたわ、それを受けてきてくれないかしら。お金なら出しますから・・」

私は、落石を頭に受けたようなショックで、途中から、母の声がよく聞こえなくなりました。

子どもは3人以上。男の子を必ず産んで、その子を会計士にするように

「どうしても男の子を跡継ぎに」、この言葉は、それから出産まで、ずっと私の頭のなかでこだまし続けました。妊娠中も胎児の性別が気になり、つい、考えすぎてしまいました。
努力で何ともならないことを要求される不条理に、「なんでここまで。雅子さまでもあるまいに」と思いました。

村田家は、仲の良い一族ですが、嫁だけは別なんだなというのが、たまらなく孤独に思えました。この手の親の要求というものは、真に受けないに限ると今はわかりますが、当時はまだ、二十四。私も未熟で、蒼かったのです。言葉通りにしか、受け止められませんでした。私は卑屈になり、嫁には人権がないのか、とまで思うようになりました。

ストレスか、新婚家庭のふかふかなベージュのカーペットには、黒い髪がたくさん落ちました。また毛が落ちてるぞ、と夫に言われては、落ちた毛を拾いました。
さすがに、自分になにが起きているのかを、24歳の自分はようやく静観し始めました。

「ちょっとまずかったかな・・・」

しかし、立派な結婚式をして、喜んでくれた里の両親を思うと、実家に帰る気にはなれません。産んでも産んでも女の子だったら私はどうなるのかとの先の不安をかかえつつも、できるところまで頑張るかと諦めに似た気持ちでした。

第一子男児出産。ほっと安心と思いきや

世の中に神様はいるもので、運よく生まれた第一子は、有難くも男の子でした。村田の家は総出で大喜び。これで少しは嫁も大きな顔ができるのではと一瞬、思ったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。むしろ、本当に大変な思いは、ここからが始まりでした。

三代目が誕生ということで、姑は、自分の父、娘、姉、そしてすべての人々を日替わりでうちに呼んできました。日曜日、ようやく水入らずで休めるかと思うと、朝の8時に電話が鳴って、子どもを連れて遊びに来いと義父からお呼びがかかりました。私たち2代目夫婦は、義父母の言われた通り動く、召使、村田家のコマのひとつにすぎませんでした。

「バカ殿様はこうしてできる」とあきれるくらい、息子は甘やかされ、なんでも与えられて育ちました。やがて、1歳になると、姑は、地元の国立幼稚園を受験するように言いだし、私はおむつの取れない息子を抱いて、幼児塾に通うことになりました。23年にわたる、幼稚園受験から国家試験合格までの、長い受験ママ生活のスタートでした。

神様扱いに、ちやほやされる、輝く我が子。対照的に、家族の中に居場所のない私。自分の思うようには育てるのでなく、まずその家の後継ぎを生み育てる、産み育てる使命の私。3代目の母である私。
村田家の絶対王政に、どこかついていけない感覚を持ち始めていました。

なぜ嫁の気持ちは考えてもらえないのだろう。なぜお父さんの言うことはみんな黙って聞いて、私の味方は誰もいないのだろう。それが、孤独でした。

愛だけではやっていけない
経営者の「家」と「事業」の承継問題

女の子は好きに育てたい

第一子で無事男児を出産はし、そのあと2人の女児を出産したため、なんとか村田家2代目嫁の使命は、なんとかやり遂げたように見えました。

ところが、女児を持ち、自分の思うようにできる子育てに味をしめた私は、気づくと「娘たちは楽しく育て、長男は苦しそうに育てている」、何とも好ましくないスパイラルを作ってしまっていました。

いちばん反省するのは、そのような母親の想いが、長男本人にも伝わり、様々な問題行動を続けることになりました。

嫁姑関係よりもつらかった親子の確執

今思えば、目を引きたかっただけなのに、愚かな母親は、彼の小さな反抗を思いきり叱り飛ばし、彼をも孤独の底に落としていました。

いい子いい子と育てられる、いたずらをしない妹たち、毎日なにかしでかし、学校に呼ばれ、親が叱られ、また家で私に叱責される長男。
私は、嫁に行って自分が孤独な立場を経験して悩んだのに、もうひとり孤独な人間を、家族の中に作り出し、そのことでもっと不安定になっていきました。息子と私は、愛したいのに素直になれないもどかしさでジレンマになっていました。

一番苦しかったのは、長男が大学に入る前、進路について、相談されたときのことです。

母さん、僕お父さんみたいに会計士になれると思う?

息子が高校2年生のある日、一貫校に通った彼は、高2とはいえ、受験勉強をするわけでもなく、バンドをやったり、ダンスをしたりと遊んでいました。

ある日、ドラムを見に行きたいから神保町に来てほしい、と言われ、お金を出してくれということだなと察しましたが、お茶の水の駅で待ち合わせをしました。時間に遅れて、カッターシャツの胸ははだけ、シルバーのネックレスにブレスレッドをした、香水くさい茶髪の17歳がやってきました。日焼けサロンで真っ黒に肌は黒く、洗っているはずの白いシャツは、少しも清潔にみえませんでした。なにかを突破できずに悶々としている様子が、黄ばんで見えたシャツから伺えました。

ドラムを選び終わり駅に向かう途中で、息子は、私の向かう先を遮って、私を見下ろし、こういいだしました。

お母さん、あのさ、僕って会計士になれると思う?
僕、会計士に向いていると思う?

この子なりに、小さい時から「僕は会計士にならなければいけない」という課題を背負ってきた彼の苦悩を、17歳にまで育て、ようやく知りました。小さい頃からの反抗の原因は、彼の悩みを母の私が受け止めてあげなかったからだと思いました。

しかし、その時私がとっさの答えは、またも、自分の身だけを守る、お粗末なものでした。

会計士にあなたが向いているかどうかは、わからない。でも、あなたが会計士にならなければ、私もあなたもあの家にはいられなくなる。わかるよね?資格なんてものは、取るだけとって、いらなきゃ捨てたっていいじゃない。

私たちはしばらく、立ったまま、目と目を見つめあって、そうだよね・・と頷きあっていました。雨音が激しく地面をたたいていました。

学校も行かず、不良もやめ、ジャージでこもりだした勉強生活

そのあと、高3のうちから会計士の塾に親に内緒で通いだし、長男は人生初の勉強生活に入りました。なんとか最後に4年生で受験は終わったものの、その間、数回受験しており、高校生の妹は、「お兄ちゃんが受かってくれないなら、私は文系に行かないといけない。早く受かってほしい」と気をもんだりしていました。

商売のあるおうちというのは、こういうことなんだと、今さらながら、継ぐもののない気楽な実家の環境との違いを痛感しました。

家業のある家というのは、いい時も悪い時も、とにかく家族一丸で乗り越える、批判して終わりというわけにいかない。

「お兄ちゃんが受からなければ、私が会計士にならないといけない」

次女がそんなことを言い出した時は、本当にびっくりしました。そのように育てていないのにと、創業家の血の濃さを、感じいりました。

村田家が、絶対君主の義父に、何があっても従い、尊敬し、ついていったのか、なぜ文句をいうものがなかったのか、その意味が、だんだんに理解できるようになってきました。

しかし、既に時遅しでありました。創業者善次郎は、3代目の公認会計士合格を、見届けることなく、急逝しました。嫁があきれるほど溺愛した孫の会計士試験合格を、なんとか生きているうちに伝えることができたら、父にどれだけ喜んでもらえたことでしょう。

天敵だった嫁が、
舅の事業承継への想いを遂げるために社団へ

父がなくなって5年、会計事務所の用事でお得意様のところを訪問したとき、「誰か娘にいい人はいないか」と声をかけていただいたきっかけから、私は結婚相談所しあわせ相談倶楽部を運営してきました。

           

そこから10年、満を持し、このほど、千代田区丸の内に一般社団法人事業承継結婚推進機構を設立いたしました。

私は、自分の経験してきた事業承継の大変さ、創業家のご家族みんなの労苦を思い、日本のすべての「家」の承継に、残りの人生を賭ける所存です。結婚を通して代々実現する、「旧いかもしれないが、今一番日本に必要とされる支援の形」を拡大することに、余生を賭けます。

ファミリー企業の創業家、地主さん、士業、医師の先生のおうちが、お子様のご結婚を支援させていただくことで、代々、事業も家も代々繁栄していかれるよう、全力サポートいたします。

今までにない、旧くからあって新しい、事業承継結婚のかたちを、世に広げることが、この社団の使命です。

そのことが、御家のご親族のみならず、地域、日本の経済の基盤を盤石にし、地方創生、日本のGDPの成長に、なによりも下支えになると信じます。

これからの日本の事業承継と未来

事業を起こした家には、逃れられない「事業承継」という使命があります。と同時に、事業だけでなく、血も継いでいかねばなりません。

血で継いでいけるならば、一瞬、親族内承継にならずとも、孫の代で血縁に戻すこともあります。次世代という人的資本があれば、いかようにも選択肢が出てくるのです。

私の相談所には、全国の後継者探しをご子息ご令嬢の結婚と絡めたお見合いの依頼が寄せられます。

経営者のおうちの結婚は、マッチングアプリや一般的な結婚相談所だけで決めるには、不足する情報があります。

私は、40年前、存在していた税理士の仲人連盟を復活し、全国の弁護士さん、税理士さん、士業の先生方との連携で、日本の良家のおうちの事業承継問題を、人的資本の承継も同時に見据え、多様性、柔軟性をもった選択と解決ができるよう、今後も邁進して参る所存です。

地元の医院がたたまれると、明日から地域医療が困難になります。地元企業が、中国にアメリカに買われたら、地元の金融機関もまた影響を受けます。コロナにより、テレワークが進み、地元に戻って働く機会ができたのに、地方の結婚が思うに任せぬゆえ、地方創生が育たないのは、あまりにも空しいことです。

Iターンをして、地方の医院を継ぎたい男性医師の婚活も、たびたび頼まれます。大学で東京に出した娘さんにお婿さんを連れて帰ってほしい、創業家も数あまたあります。

私は、これまで結婚相談所が預かってきた創業家の婚活を、新しく士業専門家のお力をお借りし、進めて参ります。

どうぞ、事業承継結婚推進機構の活動にご期待ください。
長文になりました。お付き合いいただき、ありがとうございました。